私が
高校受験したときは
A_chi-kenでは
学校群制度と呼ばれる
システムがありました
1つの群に
2つの高校が
あって
合格しても
どちらに
振り分けられるか
知れない
選択権のない
受験制度でした
私は
C校とA校が
組み合わせになった
群を選びました
たらればに
なりますが
私はA校になり
もしも
C校だったら
普通の人生だったかも
知れません
A校は
自由奔放な校風で
私服登校も
黙認されていました
それでも
9割くらいの生徒は
男子が学ランで
女子がセーラー服を
着用して
私服で登校するのは
少数派でした
私はと言えば
一年生の2学期くらいまでは
学ランでしたが
それ以降は
私服で通し
卒業式のみ
何故かしら
学ランで
出席しました
担任の先生に
お前
どういう風の吹き回しだと
揶揄されました
勉強は
自分でも
知らないうちに
受験科目だけを
授業中に
講義を聴かず
ひたすら
内職していました
先生に
殴られたこともあります
授業は
心地よい
睡眠の時間でもありました
これについても
先生に
殴られました
その先生は
スーパー教師で
地理・世界史を
何のテキストも見ずに
講義されていました
A校では
屈指の敏腕教師です
惜しいことに
もう
この世の方では
ありません
高校の時
もう一人
一目置いていたのは
数学のT先生です
そのお方も
私が卒業して
何年もしないうちに
他界されたそうです
高校生活で
今
一番為になっていることは
部活動で
やっていたことです
ただでさえ
精神的にも
肉体的にも
ひ弱で
頭でっかちな
私が
統合失調症になって
廃人に
ならずにすんだのも
やっていたお陰だと
思っています
中学校で
激しい運動は
何一つやってこなかった
私にとって
ハンドボール部は
精神的にも
肉体的にも
すこぶる
鍛えられた
時間でした
一年間
サボりながらも
止めずに
続けられた
結果
準レギュラーに
なれました
高校3年間では
色んなことを
体験しました
恋もしたし
恋されもしました
それは
2年生の時です
校外学習の時
私にクッキーを
作って来てくれた
女子生徒が
いました
初めは
嬉しくもあり
照れくさくも
ありましたが
何故かしら
その女子が
煩わしく
思うようになりました
その子の名前は
Yちゃん
その他にも
漢字が違う
Yちゃんが
二人いました
またまた
たらればですが
私に恋した
Yちゃんが
前者のYちゃんじゃなくて
後者のどちらかの
Yちゃんだったら
私の人生
かわっていたことでしょう
二人とも
名古屋の大学に
進学しました
私も
その仮定が
成り立っていたのなら
東京の大学には
進学しなかったことでしょう
さて
Yちゃんのことで
特筆する件は
まだあります
一人のYちゃんは
USR級の学年きっての
美人
もう一人のYちゃんも
USR級とはいかないまでも
とても
可憐な
素敵な女子でした
大学一年の秋休み
帰省したとき
その後者のYちゃんを
デートに
誘ったら
OKしてくれて
舞い上がってしまいました
詳しくは
明日の大学編で
話します
前者のYちゃんとの
思い出は
登校に利用した
市バスで
乗り合わせて
20分くらい
お喋りできたことは
楽しい思い出です
冬の寒い朝
霜が降りて
その上を歩くと
シャキッ、シャキッという
音がして
Yちゃんが
楽しいねって
無邪気に
微笑むその表情や声が
たまらず
可愛くて
心が躍りました
Yちゃんは
心根も優しい女子でした
私が笑いものになっているのを
かばってくれたことがありました
それは
私が
音楽の時間
習っている
カロミオベンという
イタリアの歌を
先生に
独唱しなさいと
指名されたのですが
数学の内職に
勤しんでいたこともあって
全く
トンチンカンな
歌い方しか出来ませんでした
それ以来は
私の代名詞は
オンチです
でも
Yちゃんは
発音は良かったよって
慰めてくれました
だから
恥ずかしいやら
嬉しいやら
複雑でした
オンチと言えば
別れた家内も
かなりのオンチでした
教会で知り合って
讃美歌を
一緒に歌うと
私も家内も
甚だ
音程が狂うのです
高校では
音楽で
随分
苦い思いをしました
高校1年生の学年末
実力試験の結果
志望校が決まりました
幼い頃
その大学に入学したら
学生運動に奔るか
気が狂うか
知れないので
そんな大学に
行かないと
叔父に言ったことがあって
入学後
からかわれました
果たして
私の予想は
見事に
当たりました
ということで
そこら辺に
フォーカスを
当てて
明日
大学編を
書くことにします