似非信仰からの卒業

今週のお題「〇〇からの卒業」

大学一年生の秋

私は

神秘的な体験をして

宗教の道へ

入りました

別に悩みが

あったわけでもありません

麻雀漬けの生活から

抜け出して

本腰入れて

勉学に励もうと

していた時のことでした

初めの頃は

世の中全てが

虹色に輝いて

見えて

地に足が着かずに

飛んでいました

それが

日本的な信仰観によって

叩きのめされ

我に帰りました

しかしながら

日本の信仰観には

いつも

疑問で

十年以上過ぎてから

韓国の牧師様を

通して

長年の疑問が

解かれました

病気になったのも

組織的な圧力が

原因だと思っています

だからといって

宗教に染まったからだとは

思ってはいません

日本にいたら

いずれは

日本というシステムに

押し潰されて

病気になっていたことでしょう

それなのに

今は

日本のお世話になって

衣食住が

充たされています

尊い青春を

国際共産主義との

理念的かつ

肉体的な

闘いに

捧げたことに

対する

報酬だというのは

驕慢過ぎるでしょうか

しかし

本当に

死ぬことを

覚悟して

遺書まで残して

毎日

キャンパスに

通っていた

あの頃は

本当に

辛かったです

最初の入院時

カウンセラーの

今は亡き

H先生に

余りにも

小心者の私を

そんな闘いしてたなんて

信じられないと

揶揄されました

病気するまでは

宗教的な体験を

することが

信仰だと思い込んでいた

私を

社会の中で

人間関係に

反映させることが

信仰だと

医師免許なしで

診療していた

Z先生には

大変

お世話になりました

それでも

私は

頑なに

自分を通していました

それが

結婚して

家内からも

さんざん

否定され

つい最近になって

初めて

自分の信仰が

間違っていたことに

気がつきました

だからといって

今までの

スタンスを変えた

わけではありません

ただ

もう自分は

信仰していないと

自覚するようになっただけです

それでも

保険をかけるように

サンクチュアリ教会に

籍だけ置いています

私を誘った

Hさんは

さらに

別な道へと

進んでいかれ

日本サンクチュアリ教会は

右翼団体

なってしまっているので

私は

私で

自分なりの路線で

行くしかありません

良心は

神様に

優り

両親に

優り

師に優る

という

教祖様の教えだけが

心に残っています

さて

今日は

似非信仰からの卒業を

テーマに

書き綴って来ましたが

宗教的体験は

信仰的な価値は

なくとも

人間形成には

一利あったかなとは

思っています

それでは

また

明日